第21期理事長挨拶

portrait of Prof. Kiyokazu Agata

会員の皆様へ

 私の会員番号は000004である。1978年12月5日に開催された東京での分子生物学会の発足の総会に出席し、ワクワクしながらカイコのフィブロイン遺伝子をカーネギー研究所でクローニングしていた鈴木義昭氏にインタビューしたのを憶えている。in vitroで後部絹糸腺特異的な転写制御を再構築することに鈴木氏らは挑戦していた。京大の4回生の時だった。岡田節人研究室で竹市雅俊氏と細胞接着に関する実験を卒業研究としてやっていた頃だ。1979年に大学院に進学後は、志村令郎氏から制限酵素の精製のプロトコールをもらい、50リットルに及ぶバクテリアの培養液からEcoRIやBamHIを精製しては、レンズ細胞の分化転換に関する遺伝子レベルの研究を安田國雄氏や近藤寿人氏に師事しながら始めた。主な実験材料がニワトリだったので、ニワトリのいろいろな組織からRNAを精製するプロトコールを試行錯誤しながら作っていった(当時は脊椎動物の組織からRNAを抽出した論文はほとんどなかった、、)。分子生物学会で最初に発表したのが金沢での第4回年会だった。ニワトリでは、尿素サイクルのASL酵素遺伝子がduplicateし、その一方がレンズ・クリスタリン遺伝子へと進化していたので、その2つのゲノム遺伝子をheteroduplex解析して2つの遺伝子はtandemにつながっていること、exon以外はdiverseしていることを電子顕微鏡の観察から報告した(DNAの電子顕微鏡観察は山岸秀夫氏に教わった)。そして、レンズに分化転換でき得る細胞ではレンズ・クリスタリン遺伝子はleakyな転写があることを証明し、レンズへの分化転換能力を保持している細胞ではレンズ関連遺伝子のクロマチン状態がオープンになっていることを示唆して博士の学位を取得した(Agata et al., 1983, Dev. Biol.)。博士課程の3年次に基礎生物学研究所(基生研)の助手として雇われたが、当時の基生研はDNAが嫌いな研究所だったために、DNAシークエンスの設備をセットするだけでも大変だったというかイジメにあって大変だった。そんな状況下で青天の霹靂で元ボスの岡田節人氏が所長に就任し、研究所は遺伝子をやる方向へと舵が取られた。岡田門下生だった私と浜田義雄先輩とでλgt11を用いた抗体による標的遺伝子のクローニング法を日本でいち早く立ち上げ、全国のいろいろな研究室の遺伝子クローニングを支援するとともに日本全体への分子生物学的手法の浸透に尽力した。当時筑波大学医学部生だった柳沢正史氏や客員部門にいた慶應大学医学部生の宮脇敦史氏もわれわれに分子生物学の手ほどきを受けた学生だった。

 まさか40年後の2019年に分子生物学会の理事長になり、基礎生物学研究所の所長になるとは夢にも思っていなかった。しかし、感慨にふけっている暇などないのが実情だ。分子生物学会の理事会はこの1月で21期目を迎える。人間に例えると二十歳の成人になったところだ。分子生物学会は身長2mの巨人となったが、世界と戦えるだけの逞しい体になっているのだろうか? ガタイはでかくても、ぶよぶよした体つきになっているのではないだろうか。今までの理事会では、合同年会をどうするかとか、捏造問題へどのように対応するかといった内向きの議論にエネルギーを割かれ、世界を見据えた議論にほとんどエネルギーが割かれてこなかった。20期の理事会で、それらの問題に終止符を打ったことを受け、21期の理事会としては、世界を見据えた議論にエネルギーを割いていければと思っている。世界と戦える体にするには、単に英語化すれば良いというものではない。フロントのサイエンスを展開すること、次の世代へワクワク感のあるサイエンス・環境を提供していくことが不可欠である。会議が増えて研究に割く時間が少なくなったなどと弱音を吐いている暇はない。2年間の任期の間に何処まで進化できるかに挑戦したい。個々の会員の世界を見据えた奮起にも期待したい。

 

2019年1月
特定非営利活動法人 日本分子生物学会 第21期理事長
(学習院大学・理学部・生命科学科)
阿形 清和