理事長からのメッセージ(2014年初夏)

portrait of Prof. Noriko Osumi

「科学」という手続き

 本当はもう少し、せめて桜の咲いているうちに書きたかったのですが、諸事情により遅くなりました。「諸事情」というのは、国内外の生命科学系の研究者だけでなく日本の多くの国民まで巻き込んだ「不思議な性質の多能性幹細胞」をめぐる一連の騒動のことです。

 個人的な見解については拙ブログの方に書いていますが、日本分子生物学会としては、3月3日と11日に「理事長声明」を出しました。問題となったNatureの2本の論文の筆頭著者は本学会の会員ではなく、個別の論文不正問題に踏み込んでの声明は異例なことだと思っていますが、今回の事件は社会の関心も高く、研究倫理委員会および執行部で話し合った上での声明発表でした。

 記者会見の様子が動画配信され、7時のNHKニュースのトップで20分近くも報道されるに至り、この不思議な細胞にまつわる話題は、もはや科学の世界の問題ではなくなりました。週刊誌に科学者の名前が毎週のように掲載されるような事態を誰が想像したでしょうか。これらの報道のされ方を見ていて、改めて科学の世界のできごとを一般市民に伝えることの難しさを認識しました。

 人間が智を得る手段は科学だけではありませんが、科学の世界では自分が発見したことを知らせるための「手続き」がきちんと決まっています。自らが「悟った!」「発見しました」「信じています」と言うだけでは駄目なのです。何らかの「仮説」に基づいた研究であれば、それを支持する証拠を探し、そのデータを正確に記録し、再現性を確かめます(脚注)。もし再現性が無ければ、仮説を修正する必要があるのかもしれません。十分に再現性があり、人に伝えることのできる確証を持ったなら、それを他の科学者にも見てもらって批判を受けます。必要があれば、さらなるデータの追加や、より厳密なデータを示すことを求められます。これらの「手続き」に不備があれば、それは科学の俎上には載せるべきではありません。科学には健全な批判精神が必要です。そして、学術団体が主催する年会・大会などは、まさにそのような議論を行うための場なのです。

 また、学術誌に掲載された論文は、その後も多くの科学者による再現性の検証がなされ、初めて科学の世界で認知されるようになるものです。1960年代初頭にJoseph Altmanらがラット脳で発見した生後の神経新生は、その後、半世紀かけて吟味されて霊長類でもその存在が確かめられ、認知機能や情動行動に関係することがわかりました。ヒトにおいても、1990年代終わりに癌患者のボランティアにより成体脳における神経新生が報告されましたが、ついに昨年、14Cを用いた画期的な手法により、健康な成人の脳でも生じていることが検証されました。Altman先生が最初の発見者としてその功績により国際生物学賞を受賞されたのは最初の論文発表から半世紀後の2012年のことになります。

 この10年ほどの間に、アウトリーチ活動の重要性が説かれ、研究成果を科学報道に繋げる努力が為されてきました。論文発表を科学報道につなげるためのプレスリリース文では、「何々の発見:これこれに役立つことが期待」などのタイトルを付けることが多いのも事実です。しかし、科学者たちや研究機関の広報担当者は、それがまだ「途中段階」であることを折込済みで、あえてキャッチーな言葉を用いるのですが、マスメディアの報道を見た・読んだ市民には、あたかも論文発表は完成型として受け取ることが多いということも、今回の騒ぎで強く認識したことでした。

 日本分子生物学会では、昨年の理事会フォーラムや今回の事例も踏まえ、学会としての対応を打ち出す予定です。日本学術会議では、本年1月25日に「科学者の行動規範—改訂版—」(https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-22-s168-1.pdf)を発出しました。文部科学省の研究活動の不正行為に関する特別委員会の報告書「研究活動の不正行為への対応のガイドラインについて」(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu12/houkoku/06082316.htm参照)では、それぞれの研究組織、研究資金配分機関、学協会等学術団体における取り組みについて挙げられています。また、CITI Japanプロジェクト(http://www.shinshu-u.ac.jp/project/cjp/)では、米国CITI Programとの連携により、研究倫理を学ぶためのe-learningシステムを提供しており、研究不正の定義やオーサーシップの問題が解説されています。すでにJSTの研究プロジェクト遂行者には受講が義務付けられている他、沖縄科学技術大学院大学などでは教育カリキュラムに取り入れられました。これらの状況を踏まえ、学協会側としてはどのような対応が現実的かつ実効性が高いかについて吟味する必要があります。

 研究不正問題は、研究者コミュニティーを構成する一人ひとりにとって重要な問題です。これは決して若手研究者が未熟だから生じる問題ではなく、先輩やグループリーダー、そして研究室主宰者の脇の甘さが災いする可能性があります。研究不正が起きるのを防ぐ努力こそ、起きてしまった不正に対応するよりも、長い目で見れば時間やコストのかからない賢明な策といえるでしょう。

 さて、最後に嬉しいお知らせを一つ。過日行いました分子生物学会の「キャラクター」とその「名称」の募集には、なんと259点もの応募がありました! 会員の皆さんによるweb投票(5月9日の17時まで)により決定する予定です。決定されたキャラクターデザインをもとに、今後、グッズの作製などを行い、分生が行う高校生向けイベント等で用いることになっています。乞うご期待!

 また、日本分子生物学会では2年ごとに理事の選挙を行います。学会の運営に携わり、その方向性を決める理事を選出するのに、皆様の意志を反映する機会です。投票はオンラインで行い、期間は6月23日から7月11日です。ぜひ投票をお忘れなく!

脚注:科学の分野によっては再現性を検証することが困難なこともありえます。例えば進化の過程でどのように生物が変わっていったかなどは、仮説の検証が難しい命題です。また、今後、個人のゲノム解析が進んだ場合に、一人ひとりのゲノムに存在する300万塩基対の違いや、さらに経験や環境によって影響を受けるエピゲノム修飾を考慮すると、究極にはまったく同じ条件を再現することが難しいという状況も想定できると思います。今後このような「一回性の科学」を生命科学がどのように取り扱うようになるのかは興味深いことです。

2014年4月
特定非営利活動法人 日本分子生物学会 第18期理事長
(東北大学大学院医学系研究科)
大隅 典子